2025.06.13
吉田院長のけん玉BLOG
現在のけん玉の発祥の地について
現在のけん玉の発祥の地について

現在のけん玉と広島県呉市――知られざる発祥の地をたどる

私たちに親しまれている「けん玉」。実はそのルーツが広島県呉市にあることをご存じでしょうか? この地では、大正時代から「陰陽ボール」と呼ばれる玩具が子どもたちの間で大流行し、現在のけん玉の原型と考えられています。本稿では、各種文献をもとに、けん玉と呉市の深いつながりをたどっていきます。

「えんやボール」と呼ばれた、呉地域の子どもたちの遊び

昭和58年に発行された『呉地方の方言辞典』には、「えんやボール」という言葉が紹介されています。これは「陰陽ボール」が訛ったもので、現在のけん玉にあたります。解説には次のように記されています。

「大正八、九年ごろから数年間、男の子の間で爆発的に流行し…呉地方大会が二河公園で開催され、『かわべ眼鏡店』の息子が優勝しヒーローになった。」と、当時の生き生きとした地域の記録が残されています。

陰陽ボールの記録が示す大正期の流行

「陰陽ボール」は、現在のけん玉にあたる玩具で、大正時代の初期から広島県呉市を中心に子どもたちの間で盛んに遊ばれていました。

昭和2年発行の呉市の郷土資料『愛すべき郷土』では、「大正の初以来陰陽ボールといふものが行はれてゐる」と記され、大正初期からすでに流行していたことが明らかです。

また、昭和62年刊の『呉市史(第五巻)』でも、陰陽ボールはこま・羽子板などと並ぶ代表的な遊びとして登場し、地域に根づいた存在だったことがわかります。

さらに中国地方で昭和23年発行の小学校教員向け資料『りかのとも』では、陰陽ボールが正月の遊びとして紹介されており、小学生を対象とした遊びとして地域で広く親しまれていたことが確認できます。

これらの記録から、「陰陽ボール」は大正初期から呉市の子どもたちに愛された遊びであったことが読み取れます。

陰陽ボールから日月ボールへ、そしてけん玉へ

「陰陽ボール」という名称は、その後「日月ボール」へと変更されます。江草晃・江草収人による『日月ボールの概要』(昭和58年)では次のように記されています。

「特許出願前までは陰陽ボールと称していたが、イメージが悪く日月ボールと改称した」。さらに、広島大学教育学部付属小学校学校教育研究会の『学校教育』(昭和27年)では、日月ボールと陰陽ボールが同一の玩具であり、「三つの臼と一つの突起があって…木の玉をのせたり突起にはめたりする」など、現在のけん玉と同じ構造が描写されています。

呉市で登録された「日月ボール」の実用新案

大正7年、呉市中通の江草濱次氏によって、「陰陽ボール」が「日月ボール」の名称で実用新案として出願され、翌大正8年に登録されました。

登録実用新案第48672号:日月「ボール」
出願日:大正7年10月1日
登録日:大正8年5月14日
考案者:江草濱次(呉市中通六丁目36番地)

この出願がなされた大正7年は、まさに陰陽ボールが呉市の子どもたちの間で爆発的に流行していた時期と重なります。

呉市でろくろ工として活動していた江草濱次氏(けん玉通信69号1985年)は、自ら考案した「日月ボール」を製造していたか不明ですが、大正10年にはその製造権を廿日市市の本郷東平氏(本郷木工)に譲渡し(本郷盛人氏手記 平成15年)、また同時期頃(詳細不明)から大分県別府市の神尾政治氏(神尾挽物工場)も製造権を受け(にっぽんの独楽 昭和48年)、「日月ボール」を大量生産したことが記録に残っています。

おわりに――けん玉の原点は「えんやボール」にあった

名称は時代とともに変化しても、遊びの本質は変わらず、子どもたちの手の中に受け継がれてきました。こうした記録をたどると、けん玉の原型が大正時代の呉市でかたちづくられた可能性が高いことが見えてきます。
いまや国際的な競技として進化を遂げたけん玉。その始まりは、大正時代の呉市で子どもたちが熱中した一つの素朴で小さな遊具でした。しかしその小さな遊具は、時代を超え、世界へと広がっていったのです。